マッサージ中にひらめいた日記

メトロ神戸2.jpgおはようございます。週明けに週末までの日記を予約機能で書き貯めているマスターの日記ですが、昨日で店ネタは出してしまいネタに困っています(毎日日記を書くって結構大変なんです)。

火曜日は、隔週毎にハリーさんとこでマッサージを施してもらっているのですが、生憎の雨降りで自転車ではなく久し振りに歩いて行きました。

高速神戸駅から新開地まではメトロ神戸と言う地下街があって、その入り口に私と一緒にK-BARを立ち上げたT氏の経営するテーブルテニスショップタカハシがあります。早朝なので、お店はまだシャッターを綴じてましたが、そこから新開地の駅まで昭和から平成、令和へと向かって行くメトロ神戸の歩みを伝える壁画が続いています。

「そうだ。この絵をヒントに日記を書こう」とマッサージ中思い付き帰りに写真を撮って来ました。

最初の絵は、1970年代。1955年生まれの私が高校から社会人になる激動の時代でした。

幼い頃の私は、父が貿易会社を立ち上げ、家を建て自宅に家政婦と離れに家庭教師(神戸商大の学生)を住ませるお坊ちゃまでした。幼い頃の我が家は、テレビも電話も自家用車も近所で一番。長屋に住む幼馴染がテレビを観に来てました。

そんな裕福だった我が家も、私が大学生の頃、父が保証人や大きな詐欺事件の被害者となって会社も倒産。自宅も人手に渡り賃貸のマンションで暮す事になった頃、私は実家を飛び出し東京の選手寮や北海道の牧場で暮してました。

訳あって北海道から戻り社会人五年生として、住宅会社で頑張っていた時。父が再び詐欺事件の被害者となって二度目の不渡り手形を出して母と営んでいたうどん屋も人の手に。破産宣告の免責裁判が終了するまで身を隠していたので私の自宅や会社にも父を捜して債権者がやって来ました。結局、私も会社に迷惑が掛かるので退社。先輩に紹介してもらった不動産会社で働く事に。

メトロ神戸3.jpgK-BARを共同経営で立ち上げたT氏と知り合ったのはその頃でした。

当時、私は二十代後半。彼は高校生でした。

私の勤めていた会社は不動産会社で、給料体形はフルコミッション。つまり売ってなんぼの仕事です。契約がいくつも取れた月には百万を超える給料があっても、契約がとれない月は0円。基本給などありません。

順調に契約が取れている時は良かったのですが、スランプが何か月も続く時も・・・後でわかった事ですが優良顧客を特別待遇の社員に横流しされてました。この事件発覚後、「やってられん」と、先に辞めた同僚を追って私も同僚のいる不動産会社に移籍。

話が横道に逸れましたが、そんな契約が何か月も取れない時貯金も底を突いて「このままでは家賃も払えない」と、コンビニの深夜バイトに入ったのです。そこに先輩としていたのがT氏でした。

私より一回り以上年下の彼に、私はバイトのノウハウを教わり私は彼に競馬の面白さを教授しました。

以前、この話を日記に書くと「なんちゅう先輩や」と、非難されましたが、私の教育があったからK-BARが存在するのです。

父が癌で亡くなり、父の店で修行したお弟子さんのお店が閉店したのが、ほとんど同時だった事から、私は、不動産会社を辞めて母とうどん屋をやる事になるのですが十五年目の秋。

T氏より「柴ボン競馬のバーやらへんか?」と、声が掛かります。

「場外の近くに競馬ファンが屯する居酒屋はあるけど、競馬の話をするBARってないやん」熱く語る彼の話に乗りました。

と、言うのもタッグを組んで働いている母も七十歳。そろそろ楽させてあげたいと思っていた時の話でしたから・・・

メトロ神戸5.jpgしかしながら、共同経営と言うのは長く続きませんでした。

と、言うのもお店の営業が順調じゃなかったから・・・

彼がお店の経営から手を引いた時に、私も辞めるつもりでした。大病を患って入院中の家内に「店辞めて働きに行こうと思う」と、告げた時でした。「仕事楽しいんやろ。生活費の事は心配せんでいいから頑張り」と、背中を押してくれたのです。

家内を元気づけに行って、家内に勇気づけられる情けない夫です。

ただ、住宅会社、不動産会社、うどん屋と経験した中で、私が一番頑張ったのはこの仕事。

いつまでも家内に面倒見て貰う訳に行かないので必死に頑張りましたよ。

ウインズ前でビラ配りをしたり、競馬のサイトを見つけてリンクを貼らせてもらったり(一覧表を創り出資馬が優勝した時には欠かさず祝辞を送ってました)、最終電車に乗り遅れたお客様をキャッチしようと朝まで営業もやりました。土日の競馬開催日には朝十時から深夜一時過ぎまで営業していた時は本当にストレスが貯まりました。「俺、競馬が好きで仕事してるのに、何やってんのかって・・・」

そんな頑張っている私を見てるから家内も応援してくれたんでしょうね。月末にお金が足りない時も、文句ひとつ言わず笑顔で出してくれましたから・・・結局返す事はできなかったけど。

店の経営から手を引いたT氏もいろいろと手を差し伸べてくれました。実際、彼の創ってくれたホームページがあったから、ここまで頑張れたと思います。店を訪ねてくれるお客さんのほとんどがホームページを見てですから。

今でも、お客さんとしてたまに来てくれるT氏。

そうそう姫路競馬場にある卓球場も彼の経営なんですよ(一口ではスターズオンアース号に出資してました)。

「私が六十歳になったら趣味でお店ができるよ。でもボケるから辞めたらあかんで」と、言ってた家内が五十七歳で逝ってしまい、今では養う家族もなく家内の言う趣味の店と化したK-BAR。もうがむしゃらに稼ぐ事も必要ないしそんな気力も体力もない。今はお仲間(お客様)と楽しくやって行ければそれで満足。

先日、私と同い年の調教師さんが勇退しました。私も「七十歳で引退するよ」と、やり切った感を家内のお墓に告げています。

最期の絵、大震災が1995年で家内と知り合って結婚したのが1997年。新婚当初は復興の証ルミナリエにもよく行きました。「お母さんに住んでもらって」と、ルミナリエが見えるマンションを母の為に買ってくれてからのルミナリエは母の自宅から。

家内のお墓には「趣味でお店出来て楽しく過ごせてます」と感謝の手を合わせています。

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